旅行・おでかけ
古今青柳で料理人の思いがつまったもてなしを堪能する/徳島県鳴門市
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鳴門海峡を見下ろす地へ 憧れの料亭を訪ねる
いつかは青柳へ。焦がれ続けた料亭である。徳島市街にあるその店の名を知ったのは、確か10年以上も前。『料理の鉄人』というテレビ番組が人気を集め、グルメブームに沸いていたころのこと、著名な料理評論家の折り紙つきの店として紹介されているのを目にした。その後、さまざまなメディアを通して、青柳の、また店の主人で料理人の小山裕久氏の、名声に触れた。美食家として知られる著名人たちの舌を満たし、一流といわれる人々が通う店、青柳。その店に相応な分になれたならば、と憧れのまなざしを向けてきた。
昨年の夏、青柳は鳴門海峡を見下ろす地、大人のリゾートエリア「鳴門パークヒルズ」内に店を移し、名を「古今青柳」と改めた。幸運にも、今秋、その古今青柳で小山氏にお話を聞く機会に恵まれた。決して「相応な分」になったわけではないが、与えられた幸運に感謝し畏敬の念を抱きながら鳴門へ向かった。
鳴門北ICから車で10分ほど走ると、鳴門パークヒルズの入り口に着く。そこから坂道を上がっていった、このリゾートエリアの最も奥、最も高台に、古今青柳はあった。昔からこの地に建っていたような、敷居の高いところだという身構えをほどいてくれるような、どこか懐かしいぬくもりを感じさせる件まいの玄関に迎えられた。引き戸を開けると、土間、正面には軸が掛けられ、花が生けられている。その静謐で清澄な空気に満たされた空間から豊かな時間は始まった。
最初に案内されたのは、玄関を上がってすぐの「膳所」という間。入った、瞬間、目の前の景観に息をのんだ。白砂の海が広がる石庭が現れたのである。その部屋は、存在を感じさせない一面の窓ガラスを介して奥行きのある石庭に向かって開いている。椅子に腰掛けて石庭を眺めながらお茶をいただく。その眺めに言葉を失い、心の中に静けさがじんわりと広がっていくのを感じていた。案内してくださった料理人の方によると、ここでは昼の献立をカジュアルに楽しむことができるそうだ。
石庭を右手に見ながら畳廊下を歩いて次に通されたのは、数寄屋造りの座敷。広縁の先に庭があり、その先に離れがある。離れは茶室だという。も・つづの広縁側からは鳴門の海が見える。庭と茶室の眺めも、鳴門の風景も、膳所からの石庭の眺め同様に飽きることのないものだった。「楽に座って食事を楽しんでもらいたい」との心くばりで、この座敷にはテーブルと椅子がしつらえられている。ここで、料理を待った。
古今青柳
徳島の豊かな食材 鳴門の鯛への思い
徳島の豊かな食材鳴門の鯛への思い「鳴門の鯛に導かれてやってきました」。この料亭の主人である小山氏は、8万坪ある敷地の中で最も海から近い場所に設けられた月見台で、そう言った。「ここが一番好きな場所」と話しながら目をやった先には、大鳴門橋の架かる鳴門海峡が見える。空が澄んだ日中に、はるか遠くを眺めれば、淡路島も視界に入るという。
徳島市街で歴史を重ねた青柳が、なぜ鳴門に店を移したのか。そのことについて小山氏は語ってくれた。
「家業を継いでからというもの、徳島の豊穣な海の幸や山の幸を使った料理をお出しして、お客様に喜んでもらいたいという思いで日々努力していました。それとは別に50歳になるまでに束京に店を出すという日標も持っていました。家内にもそう約束していました」。
青柳の三代目となった小山氏は、素材の持ち味を生かした日本料理の匠として評判を取り、数多くのメディアで、その技とつくり出す味が紹介された。そして47歳の時に東京出店を果たす。東京青柳に続いていくつもの店をプロデュース。「プラザアテネ」「リッツ」などフランスの名門ホテルで日本料理フェアを行い、その名は国内はもとより海外でも知られることとなった。
「この眺め絶景でしょう。若いころからこの辺りにはよく来ていました。家内とドライブにね。こんな景色のいい場所に店を持ちたいと、話していたんです。60歳が近づくにつれ、残りの人生について考えるようになった。すると、やりたいことが見えてきた。鯛のいる鳴門へとの思いで6年ほど前から計画を進めてきました。人に恵まれ、念願が叶い、この地に古今青柳を構えることができました。ここにしかない景色、ここにしかないもの、ここでしか作りだせないもの、それをお客様に楽しんでいただき、幸せを感じていただければ採光だと思っています」。
小山氏は、鳴門の鯛に限らず、わかめ、すだち、れんこん、和三盆糖など、徳島の食材に誇りを持っている。また、日本料理については「世界一の料理だ」と胸をはる。
「主役は料理人ではなく、鳴門の鯛や徳島の食材です。私たちの仕事とは、そういうことです。鳴門の鯛に教えられたことがいっぱいある。そして、どんなに私が頑張っても鳴門の鯛には追いつけない。それで、また頑張ろうと思う。だから鳴門の鯛の近くで包丁を使えるここへ、鯛に導かれてきたんですよ」。
座敷から見える景色も素晴らしい
多彩な料理とジュレ状の土佐酢がかかった酢の物が詰められた「文箱八寸」
「普通に」の心で 素材と向き合う料理人
青柳の創業は明治後期。四国一の芸どころといわれた検番(※)のある富出町で料理屋を営むようになったのが始まりだった。小山家は江戸時代から、その検番の大株主だったそうだ。創業当時の富田町は京都でいえば祇園のような町で、小山氏いわく「うちより大きな料亭が2、3軒あったそうですよ」。太平洋戦争の時代に、眉山の束に位置する弓町に移転。
「前庭があり、表座敷があって、その奥に2階建て、茶室と湯殿がある。そういう店でした。そして戦後、これからの新しい時代、新しい町でと、鷹匠町に店を移しました」。鷹匠町はビルがびっしり並ぶ、徳島一繁華街。ところが小山氏によると「当時は近くにテニスコートがあったり、うちの3軒ほど向こうには畑があったりした」とのこと。鷹匠町に移転してからの青柳は「徳島一の料亭」と称されるほど賑わい、「青柳のように」と憧れる人も多く、料理屋が集まってきて、周辺は一大料亭街になった。時代とともに、遊興街の色あいを帯びてきたり、ビルの町になったり、鷹匠町の風情は変わっていったが、青柳は代が替わっても「四国徳島に料亭青柳あり」と注目され続けた。そして、その歴史を刻んだ地から、絶景を望む鳴門の高台へと移ったのである。
文箱と呼ぶオリジナルの重ねの器に、多彩な料理とジュレ状の土佐酢がかかった酢の物が詰められた「文箱八寸」。包丁技が冴える鯛の造り、鯛のもち味を最大限に生かした名物料理「鯛の淡々」。テーブルヘと運ばれてきた料理は、いずれも小山氏の日本料理を、徳島の美味を堪能させてくれる品ばかりである。
「先代の女将、私の母からは、鯛料理は、潮、お刺身、塩焼きの3つだといわれました。受け継いできた伝統の味はもちろん大切だと思う。それを守り伝え、そして新しい味をつくることもしていきたい。古を今に映し、その向こうに新しきを見る。そういう思いを込めて、「古今青柳」としたのです」。老舗料亭を継いだというよりは「小山裕久の日本料理」という世界を築いてきたという印象を持っていたので、「先代から受け継いでいることで大切に考えていらっしゃることは何ですか?」と尋ねた。「普通に、ということですよ。それが、素材の持ち味を生かす料理の基でもある。おもてなしも、普通に気持ちよく過ごしていただけることを心がけています」という答えが返ってきた。
故郷・徳島や日本料理について、修業をした料亭「吉兆」での日々や国際交流基金パリ日本文化会館の食文化アドバイザーとしての仕事についてなど、小山氏からたくさんのお話を聞かせてもらった。月見台のそばにある「万里荘」という名の座敷から玄関へ送ってくれながら、その途中にある建物の意匠やしつらえなどについて「これはね…」と詳しく話してくれる。一つ一つに物語があり、思いがある。いや、ここ古今青柳には、小山氏が心を尽くしていないものは何一つ存在しない。そのことに感動した。
日本中にはたくさんの料亭があり、すばらしいといわれるレストランも数多くある。その中にあって青柳が美食家たちから贔屓にされている秘訣は、心を尽くし「これ」と思うものでおもてなしするというまっすぐな姿勢につきるのではないだろうか。小山氏の「これ」と思うものへの気持ちは、強く、深い。それが古今青柳の味に、空間に、しつらえに、息づいている。
「咋日より今日、今日より明日と、おいしい料理が作れるようにがんばりたい。料理が好きだから、私のハードディスクは料理人ですからね」。(提供:四国旅マガジン GajA)
(※)編集部注:料理屋、芸者屋、待合の業者が集まってつくる組合の事務所
鯛のもち味を最大限に生かした名物料理「鯛の淡々」
包丁技が冴える鯛の造り















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